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1 post from April 2006

April 23, 2006

日々の唄


 その日、僕は休憩時間に本を読んでいて、短編小説の最後の一行を読み終えたと
き、「人はどんなふうにだって生きられるんだ」となぜだか強く思った。理由はよくわか
らない。それほど前向きな物語でもなかったから。目の前の窓ガラスには白い蝶が
張り付いていて、その死んでるのか生きているのかわからない姿の向こうに、青い空
と薄く引き伸ばされたような雲が浮かんでいた。煙草の煙は小さなうねりとなって漂い、
やがて目の前から消えていった。ようやく一息つけた気分だった。おそらく、こんな前
向きな気分は長くは続かない。それでも、悪くない午後には違いなかった。

 休日になると、久しぶりにひとりで街へ出た。欲しかったCDを買って、それからふらっ
とビリヤード店へ。この前、職場の友人たちとビリヤードをしてみたところ、ひどく楽しか
ったから。薄暗い店内の中で、整然と並んだ緑色のラシャが光っていた。ブランズウィッ
ク。経験者にはお馴染みのビリヤード台。昔、バイトしていたビリヤード店もブランズウィ
ックに緑色のラシャだった。開店したばかりで客のいない店内はなぜだか厳粛な感じが
したものだ。その頃、僕はよくジュークボックスでストーン・ローゼズを流しながら玉を突
いていた。

 足元が不安な感じ ぽっかり穴が開いたような
 力が抜けたような感じがするんだ
 情熱の果実と聖なるパンとが
 腹を充たし 頭をやすめてくれる
 朝早い陽の光のなかで
 彼女が見える、彼女がやってくる
 彼女はドラムを打ち鳴らす
 
 店内を見回すと、ひとりで来ているのは僕だけだった。昔はひとりで突いてる人がたく
さんいたし、そういう人はたいてい巧かった。残念ながら、数年のブランクがある僕は決
して巧いとはいえない。玉を並べてブレイクをする。いまひとつちゃんと当たっていない。
チョークをタップにこすりつけるキュッキュッという音。キューで手玉を突いた瞬間のコツ
ンという音。やがて手玉は的球へ当たり、頭の中でイメージした通りの軌道を描いて、
ゴトンという音を上げて的球がポケットに落ちる。そう、僕はこの一連の感覚が好きだっ
た。ビリヤードのいいところは、それをやっているときはほかのことはなにも考えられな
いところだ。照明が薄暗い店ではとくに。僕はそれから二時間くらい、ひとりで集中して
玉を突き続けた。2番をコーナーへ。4番を薄く当ててサイドに流し、次の5番を落としや
すい位置に手玉を出す。5番を引き玉で落としたが、引き過ぎてしまって7番が狙いづら
くなる。仕方なくバンクショット。外れる。昔はこの程度のバンクなら決められた。それは
自分の腕が鈍っていることを確認する作業だった。それでも、玉突きは心地よかった。
正しいショットをすれば的球は落ちるし、間違ったショットをすれば落とせない。そこには
誰にでもわかるルールがあった。二時間後、最後の9番を落として煙草に火をつけた。
そして気付いた。これだけ時間を費やしても、結局のところ僕の出した結論は変わらな
かった。

 向かいの「TOPS」に入って、アイスコーヒーとトーストを注文した。いつもなら座れる店
なのに、今日は満員だったのでバーのテーブル席に通された。バーの方は黒を基調と
した内装で、視線を上げると店名がかたどられたネオンが見えた。壁際には様々な洋
酒の瓶が並んでいた。カウンターには早い時間から酒を楽しむ人がいて、そんな人々
を眺めたりしながら時間を潰し、またしばらく本を読んだ。いい小説だな、と思った。こん
なふうに文章を書けたら素敵だろうと。それから、今後の自分の日々を展望した。おそ
らく僕はまたここから始めるべきで、そのために動かなければならないような気がした。
 薄暗いバーの向こうでは、明るい照明の下で、真っ白な服を着た店員がまた新しい
客を迎えようとしていた。

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