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1 post from June 2006

June 01, 2006

ダラーナホース


 何も得ることのない五月が通り過ぎ、僕らは六月を迎えていた。窓の向こうの広場
はフリーマーケットで賑わい、出品者たちはかつては必要であったがらくたを並べて、
人が良ければ品物もいい、といったたぐいの微笑みを浮かべていた。僕がこの街へ
引っ越してきた頃はここはただの広場でしかなくて、薄汚れたタイル張りの地面と午
後を持て余した人々の営みが眺められたものだ。野球のキャップをななめに被った
子供を連れた父親が、古いレコードを一枚指差して口を開いた。出品者は感じのい
い笑顔で首を振った。
 彼女はまだこなかった。店内では、フリーマーケットなどまるで関係がないように、
人々は顔を向き合わせ、一週間分の話題を思いおもいに喋っていた。会社員の業
務成績は芳しくなく、大学で結成されたあるバンドからはギタリストが抜けるようだっ
た。僕の後ろの席に座った女の子はマルチーズを飼いはじめた。日曜の午後、個人
的なニュース。さまざまな話題の上で、時計の針が昼下がりの時を刻んだ。日曜の
午後、僕らはいつもこのカフェで過ごした。僕の部屋から二人で一緒に来ることもあ
れば、ここで待ち合わせをすることもあった。そんなとき、たいてい先に着くのは僕だ
った。コーヒーを飲みながら本を読んで彼女を待つ。ふと顔を上げると、彼女がカフェ
のドアを開けて入ってくる。どれだけ本に没頭していても、なぜだかいつもその瞬間
だけは逃したことがなかった。入口に並ぶ観葉植物を抜けたところで彼女は立ち止
まる。風が吹いているわけでもないのに片手で髪を押さえて、壁際にある本棚あた
りから順に店内を見回す。ソファ席、いくつものテーブル、窓際のカウンター席。とき
には僕の姿を通り過ぎることもあった。それでも、最後には僕を見つける。ヒールが
刻むこつこつという足音。僕の向かいの席に座った彼女が微笑む。
「ごめん、待った?」
「普通?」

 彼女はよく、好んでスウェーデンの話をした。その冬の厳しさについて。とりわけ、
聖ルシア祭について語るのが彼女のお気に入りだった。長くて暗くて寒いスウェーデ
ンの冬。一年のなかで最も昼が短い冬至に、これから日が長くなっていくことを人々
は祝う。教会のミサで少女たちは白いドレスに身を包み、少年たちは星の帽子を被
って聖歌をうたう。彼女はいつも、ここで少年と少女の恋の話を盛り込んだ。雪化粧
をした町に響くサンタ・ルチア。サフランパンとジンジャークッキーで祝う冬の朝。
 実際のところは、彼女はいちどもスウェーデンを訪れたことがなかった。彼女がス
ウェーデンに興味を持ちはじめたのは、彼女の母親が若い頃にスウェーデンへ旅行
に行ったという話を聞いてからだった。
「もし、そこでお母さんが誰かに出会ってたら、私にもスウェーデンの血が流れてい
たと思わない?」
「それだと別人になってるよ」
「なんで?」
「だって父親ちがうし」
「それでも私なの」
 彼女はいつもそう言った。僕らが付き合いはじめて一ヶ月くらいが過ぎた頃、彼女は
キーホルダーを二つ買ってきた。ダラーナホースと呼ばれるスウェーデンの民芸品で、
彼女の指には色違いの馬が二頭ぶらさがっていた。彼女はそれにキーを通し、僕に
渡してくれた。スウェーデンほど寒くはなかったけれど、僕らは冬を越し、一緒に新年
を迎えた。明け方、ベッドからテーブルに目を向けると、そこには彼女のダラーナホー
スがかしこまっていた。

 窓の外では日が落ちはじめていた。半数くらいの顔ぶれが入れ替わっても、カフェ
のなかでは相変わらず熱っぽいざわめきがつづいていた。いくつものカップやグラス
が洗われて、また新しい客の前へと送り出された。オレンジ色の光が窓際の人々を
照らし、気の早いフリーマーケット出品者が店じまいをはじめているのが見えた。BG
Mはヴォーカルからジャズに変わった。サンタ・ルチアは聴こえなかった。本を閉じて、
しばらくジャズのフレーズに耳を傾けながら、いずれやってくるはずの日々のことを考
えた。
 古着、カセットテープ、年代物の電化製品、個人的なコレクション。フリーマーケット
ではさまざまな物が売りに出されていた。広場は毛布やビニールシートで区切られ、
出品者はそれぞれの住居の主として客を出迎えていた。彼らの邪魔にならないよう
に僕は広場の端を通って歩いた。年配の主婦と若い男が、商品をめぐって言い争い、
周りの人々が仲介に入って騒ぎを収めようとしていた。その騒ぎを止めに行ったのか、
僕の目の前には出品者のいない商品が並べられているスペースがあった。おそらく
手製だと思われるネックレス、ところ狭しと並べられた小物、いくつもの紋章をあしらっ
たキルトが無造作に積み重ねられている。僕はポケットからキーホルダーを取り出し
て鍵を外し、ダラーナホースをキルトの海へと送り出した。
 広場をあとにして歩きながら、僕はダラーナホースのことを考えた。馬はキルトの荒
波を乗り越え、濡れたたてがみを揺らして走りながら、やがてどこかの地で一頭の牝
馬に出会うだろう。それは美しい白い馬で、はじめのうちは警戒しているが、しだいに
その距離を縮めて求愛のしるしにお互いの首を静かに舐め合うだろう。二頭はふかく
暗い雪原を駆け、スカンディナヴィア山脈を抜ける。視界が開けてくると、眼下にはス
ウェーデンの町並みが見えてくる。小高い丘に二頭は並んで立ち、サンタ・ルチアが
響く朝に教会の鐘の音を聞くことだろう。


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