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July 07, 2006

湖畔のほとりで


 ぬかるみに足を取られないように浅瀬へ向かって歩き、太陽を背にすると、来栖は壊
れたボートのエンジンを直しはじめた。長年の風雨にさらされたボートはところどころ錆
びついていて、とても直せそうな代物には見えなかった。僕は桟橋に座って湖に釣り
糸を垂れていた。浮きはぴくりとも動かない。餌がレーズンであるのが問題なのかもし
れない。魚はレーズンを食べないというのが来栖の持論だった。
「釣れない」と僕は言った。
「だから言ってるだろ」
「ひどいよな、そのボート。戦火でも抜けてきたみたいだし」
「グレゴリー中尉」
「誰?」
「知らない。たぶん、戦争の英雄」

 微風が湖にさざなみを広げていった。暑い日だった。この湖にやってきて、もう三週間
になる。避暑地に行かないか、と誘ってきたのは来栖で、僕らは休暇を取って夏のあい
だのニ週間をこの別荘で過ごすことにした。僕らは町の薬品会社で働いていた。その
職種は来栖に言わせれば、大いなる流れ作業の遊撃手と言ったところだ。県境に位置
する湖はかつては釣りが盛んな美しい場所であり、「リバーランズ・スルーイット」が公
開された頃にはちらほらとフライフィッシングをする人を見ることもできた。でもそれも、
湖周辺の工場が公害を撒き散らしはじめるまでのことだ。湖は汚染され、魚は大量死
した。汚染は人体に影響がないと発表されても釣り人はもう戻らなかった。
 避暑地、と来栖は言ったけど、暑さは僕らが住む町と変わらないように思えた。木陰
にいても僕の背中はすでに汗ばんでいたし、壊れたエンジンを凝視する来栖の額から
は大粒の汗が流れていた。別荘はモルタルの平屋で、湖に面して開け放たれた窓は
涼しげだったが、空調設備が壊れているせいで、その景色は大きな額縁に入れられた
風景画のように常に鑑賞を求めてきた。いずれは眼をつぶっていてもその風景画を細
部まで模倣できるようになることだろう。町に戻る予定だった二週間目の最後の夜、僕
が窓の外を眺めていると、来栖が何本目かの缶ビールを飲みながら言った。
「中途半端なポジション」
「なんの話?」
「いてもいなくても、変わらねえだろ」
「だから何が?」
「それにさ、もう白衣は着たくない」
「悪くないユニフォームだとは思うけどね」
「おまえ、あのチームに正式入団したい?」
「うんざりだね」

 その翌日から、僕は釣りをはじめ、来栖は壊れたボートを直しはじめた。僕らの休暇
は無期限に延長された。食料がなくなったときには、駅前まで車で買い出しに行ってイ
ンスタント食品を大量に買い込んだ。思考のほかには何も生み出さない生活が続いた
が、たぶん僕らはそうした日々を必要としていた。僕はレーズンで魚が釣れることを夢
見ていて、来栖は薬品会社の受付の女の子を夢見ていた。実際、来栖はいいところま
でいった。その冬、彼女は僕らが働く薬品会社へやってきた。彼女が椅子に座るだけ
で、重々しい工場の受付が華やいだことは僕も認めよう。冬のあいだは、来栖も彼女を
眺めるだけで満足していた。たわいもない朝の挨拶を通して、来栖は少しずつ彼女の
実像を得ることに成功し、それに伴って町の草木は芽吹きはじめた。春になると二人は
花見に出かけ、町でいちばん洒落た店で向かい合って食事をした。その夜、来栖は彼
女の部屋のベッドに偉大なる一歩を踏み出した。鷹は舞い降りた。翌朝になって僕と顔
を合わせたとき、来栖は興奮気味にそう言った。来栖の月面生活は二ヶ月間続いた。
結局のところ、彼女が求めていたのは大いなる流れ作業の遊撃手ではなかった。それ
でも来栖は月へ行ったのだ。僕はそれを偉業だと思うことにしている。

「このボートが直ったら、彼女をメキシコに連れていくんだ」
「ふられたのに?」
「メキシコ、ちょっといいだろ?」
「この湖はメキシコに繋がってないよ」
「気持ちの問題だよ、それって」
 浅瀬に脛まで浸かった来栖の足元を琥珀色の魚が泳いでいた。釣り糸をそちらに向
けると、魚は水面にきらめきを残して消えていった。来栖は工具を手に、食い入るように
エンジンを覗き込んでいる。僕は小さく微笑んだ。暑い日だった。夏はそこにとどまった
まま、永遠に滞在を続けていくように思えた。どこかで鳥が鳴いていた。湖畔の静かな
午後、僕は釣り糸を見つめ、魚がレーズンに食いつく瞬間を思い描いていた。


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