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January 11, 2007

そこにある景色

 

 職場の喫煙所には背の高い大きな窓があって、そこから新宿の裏側の住宅街を望むことができる。僕は一日に何回も喫煙所に行くから――さながらスモーカーのアウシュビッツ――同じ街の同じ角度を何度となく確認することになる。僕が働くフロアは高いところにあるので、窓から見える景色の半分以上は空だ。遠くにはくっきりと地平線が見えて、その左右を這うようにして霞んだ山々。地平線から手前にかけてはミニチュアのような建物が適当に配置されたみたいに四方に広がっている。よく晴れた日には、風に流れる大きな雲が地域に影を落とし、その影がペーパータオルで拭き取られた水みたいにすっと消えていくさまを見ることができる。僕はその瞬間がちょっと好きだ。

 その日の夕方、いつものように街を眺めていて、昔あの辺りは家族で歩いたことがあるなと思い当たった。なんの用事で出かけたときだったかはわからない。とにかく家族で歩いたことがあったはずだ。父と母と兄と僕で。記憶というものはときどき、ふいに訪れて人を落ち着かない気分にさせる。いまにして思うと、僕の家はみんなで出かけることがとても少ない家族だった。

 思い出せるかぎり、家族四人で旅行に出かけたのは一度だけだったと思う。親戚の家へ顔を出すときにはたいてい父はいなかったし、毎週のように足を運んでいた祖父の家にはいつだって父の姿はなかった。まだ幼かったから気にしていなかったが、当時から僕の家族は問題を抱えていたのかもしれない。父の日々はすでに下降線をたどりはじめていたのかもしれない。

 鮮明ではない当時の記憶を思い返すうちに、僕自身が僕自身の子供を連れて歩く日が来るのだろうかと思った。ありえそうもない話だ。そんな光景をリアルに思い浮かべることができなかった。おそらく僕は準備に欠けているか、破綻した夫婦を近くで見すぎてしまったのだろう。良いイメージが浮かばないものはたいていうまくはいかない。だから、暮れゆく街を眺め、過ぎゆく現在をただ見つめていた。傾いた陽が建物を淡い朱色に染めると、いくつかのビルが小さく瞬いた。

 それにしてもあれは、もうずいぶんと昔の話だ。たぶん目的のない人生というものはあっという間に過ぎていく。目的があっても叶わない人生も同様に。あるいは望みどおりの人生を生きていても同じことなのかもしれない。なにかをはじめなきゃなと思った。きっと、こうして考えたことさえも、いつかどこかでふと思い出し、あれからずいぶん時間が経ったなあと思うのだろう。「人生はあなたを待ってはくれないのよ」。いま読んでいる小説の台詞だ。時間にはかぎりがあり、人生は待ってはくれない。

 今年最初の出勤の日、僕が考えていたのはおおよそそのようなことだった。その日、職場での最後の煙草に火をつけた頃には、外はすっかり暗くなり、背の高い大きな窓は景色よりも僕自身を映し出していた。早急な結果を求めたり、焦って思考だけを足早に進めたりすると心のバランスを崩すことを僕は知っていた。メンタルによって日々の彩りの見え方は変わってくる。そのくらいのことがわかる程度には年を取った。


 目を背け過ぎず、目を向け過ぎず、バランスを保って行動すること。日々に小さな楽しみを見出しながら、少しずつでもやるべきことをやろうと思っている。時間にはかぎりがあり、人生は待ってはくれない。人生は父がふたたび浮上するのを待ってはくれなかった。だから? 結局のところ、人は自分のペースでしか歩めない。

 

 

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